ここでようやく、父と話せた気がします
喜怒哀楽の家族葬が生んだ、静かな対話の時間
家族葬の現場で感じた変化
法人化してからも、私はひとつひとつの納棺を丁寧に積み重ねてきた
形式にとらわれず、遺族の感情にそっと寄り添うことを大切にしていた
そんな中、とある家族との出会いがあった
故人は突然亡くなった父親だった
遺族は混乱し、打ち合わせも落ち着かない様子だった
それでも、どうしても自宅で葬儀をしたいという強い希望があった
自宅での一日葬 形式よりも時間を大切に
私は提案した
葬儀というより、語れる時間にしませんか
式次第よりも、思い出や言葉を大切にすること
それが、そのご家族にとって一番自然な別れになると感じた
自宅のリビングに布団を敷き
お花を並べ
遺影と、写真と、手紙を置いた
音楽もナレーションもない
ただ、静かな時間が流れた
ご家族がこぼしたひとこと
式が終わったあと
娘さんが、ポツリとつぶやいた
ここでようやく、父と話せた気がします
誰かに向けた言葉ではなかった
でも私は、その言葉をずっと忘れられないでいる
涙があったわけでもない
大きな演出があったわけでもない
ただ、遺族と故人が向き合う空間が、そこにはあった
本音を交わせる葬儀を
私は確信した
葬儀とは、区切りではなく、対話の時間であるべきだと
感情を抑えず
飾らず
誰にも遠慮せず
語りたいことを語る
そんな時間があっていい
むしろ、そういう時間こそが
故人との関係を完了させる手がかりになる
喜怒哀楽の家族葬が意味するもの
喜怒哀楽の家族葬という名前には
泣いてもいい
笑ってもいい
怒ってもいい
そういう思いを込めている
あの娘さんの言葉
父と話せた気がします
それは、葬儀という形の中で
一番深い供養だったのではないかと思う
次章へ
次回は、こうした家族葬の現場がどのように広がっていったのか
そして、なぜ今この葬送の形が必要とされているのかを伝えたい
▶ 第七章 魂の成長としての葬儀