葬儀で塩を使う由来と、現代における当社の考え方


葬儀で塩を使う由来と、現代における当社の考え方

葬儀で使う清め塩と枕飾りの水差しを置いた、故人様を丁寧に見送るためのイメージ写真
清め塩と枕飾りの水差しに込められた意味を見つめ直し、故人様の尊厳とご家族の心を大切にします。

葬儀には、昔から受け継がれてきた作法が数多くあります。

その中でも、近年あらためて考える必要があると感じているのが、お清めの塩枕飾りの水差しの取り扱いです。

葬儀の現場では、時代とともにさまざまな作法の省略が進んでいます。

当社でも、このお清めの塩と枕飾りの水差しについて、長い間考え続けてきました。

実は、約7年間、はっきりとした答えを出せずにいました。

昔からあるものだから残すべきなのか。

現代のご遺族の心に合わないものは見直すべきなのか。

形式として続けることと、意味を大切にすることの間で、ずっと考えてきました。

そのような中、先日終えた葬儀の際に、お孫様が語られた故人様との記憶に触れる出来事がありました。

そのお話に、私自身がハッとさせられました。

作法とは、ただ形を整えるためのものではなく、故人様との記憶、ご家族の想い、そして最後まで人として大切に向き合うためにあるものなのだと、あらためて気づかされました。

その出来事をきっかけに、当社としての考えが定まりました。

ここに、とーたる・さぽーと0528としての方針を、報告とお知らせを兼ねて記します。

とーたる・さぽーと0528では、昔からあるからそのまま続けるのではなく、今の時代に本当に必要なのか、ご遺族にとって意味があるのか、故人様への敬意につながるのかを大切に考えています。

葬儀で塩を使う由来

葬儀で塩を使う習慣は、仏教そのものから生まれた作法ではありません。

その背景には、古代日本の死生観、神道的な清め、民俗的な魔除けの考えが重なっています。

昔の日本では、死は悲しみであると同時に、日常や神事に影響を与える穢れとして受け止められることがありました。

古事記や日本書紀に見られる伊邪那岐命の黄泉国の神話では、死の世界から戻った伊邪那岐命が、身を清める場面があります。

このような考え方が、のちに水や塩で身を清める習慣へつながったとされています。

また、古代の制度の中には、死に触れた人が一定期間慎むという考えもありました。

人の死に触れることは、共同体や神事に影響するものと考えられていたのです。

つまり、昔の社会では、死は単なる個人の悲しみだけではなく、生活全体に影響を及ぼすものとして受け止められていました。

なぜ塩だったのか

塩が清めに使われるようになった理由には、実用的な面信仰的な面があります。

昔は、今のように医学や衛生管理が発達していませんでした。

人が亡くなることには、遺体の腐敗や疫病への不安も伴いました。

その中で、塩には食べ物の腐敗を防ぐ働きがあることが経験的に知られていました。

食べ物を塩で保存するように、塩には腐敗を防ぐ力がある。

その実用的な力が、やがて死に伴う不安や邪気を払う力として受け止められるようになったと考えられます。

さらに塩は、海水から生まれるものです。

水で洗い流す力。

火や太陽の力で生まれる清らかな結晶。

そのようなイメージが重なり、塩は清めの象徴として大切にされてきました。

仏教では、本来、死を穢れとは見ません

一方で、仏教の教えでは、死を穢れとして見る考えは本来ありません。

仏教では、生と死は切り離されたものではなく、いのちの流れの中にあるものとして受け止められます。

死は忌み嫌うものではなく、無常を見つめ、いのちの尊さを考える大切な場面でもあります。

そのため、清め塩は仏教本来の作法というより、日本古来の清めの考えや、地域に受け継がれてきた習慣が、仏式葬儀の中に残ったものと考えるのが自然です。

仏教葬儀の中で、清め塩を明確に使わない立場として知られているのは、主に浄土真宗です。

浄土真宗では、亡くなった方は阿弥陀如来のはたらきによって浄土へ往生し、仏となると受け止めます。

そのため、故人様や葬儀の場を穢れとして扱い、塩で清めるという考え方は、浄土真宗の教えとは合わないとされています。

一方で、浄土宗、曹洞宗、真言宗、天台宗などでは、地域や寺院、葬儀社の考え方によって、清め塩を用意することがあります。

大切なのは、宗派名だけで一律に決めつけることではなく、その地域の習慣、ご寺院の考え方、ご家族の受け止め方を確認しながら整えることです。

昔と現代では、死への向き合い方が変わっています

昔の社会では、死は今よりも身近であり、同時に強い恐れの対象でもありました。

医学も衛生管理も十分ではなく、感染症や腐敗への不安もありました。

だからこそ、死に触れたあとに身を清めることは、心身を守るための大切な行いだったと考えられます。

しかし現代では、医療、衛生、火葬、遺体安置の環境が大きく整いました。

昔のように、死を穢れとして遠ざける感覚は少しずつ変わってきています。

むしろ今は、大切な人を尊厳をもって見送りたいという思いが強くなっています。

ご遺族の中には、亡くなった家族を塩で払うような行いに、違和感を持つ方もいます。

大切な人を不浄なものとして扱いたくない。

この感覚は、現代の葬儀において、とても大切にすべきものだと当社は考えています。

昭和以降、清め塩は葬儀の定番のように広がりました

現代の多くの方が思い浮かべる清め塩は、会葬礼状や返礼品に添えられた小袋の塩ではないでしょうか。

この形は、昔から全国一律にあったものというより、昭和以降、葬儀が自宅中心から式場中心へ移り、会葬礼状や返礼品を葬儀社がまとめて準備する流れの中で、葬儀の定番のように扱われる場面が増えていきました。

清め塩を添えることは、参列者の不安に配慮する面もありました。

一方で、宗派の考え方に関係なく、清め塩が当たり前のマナーのように受け止められることにもつながりました。

しかし、改めて考えると、清め塩は必ずしもすべての葬儀に必要なものではありません。

当社のお清め塩に対する考え方

とーたる・さぽーと0528では、清め塩の由来を理解したうえで、現在のご家族の心に合う形を大切にします。

そのため、自宅安置の場面では、専用のお清め所をできるだけ持ち歩いたり、葬儀社側の備品として大きく設置したりする形は取りません。

代わりに、ご自宅にある小皿へ塩を準備していただく形を基本として固定します。

これは、塩の習慣を否定するためではありません。

昔からの習慣を大切にしたい方がいる一方で、故人様を穢れとして扱いたくない方もいます。

そのどちらの気持ちも損なわないための形です。

小皿に塩を準備することで、必要な方は使うことができます。

使わない方に無理をさせることもありません。

また、ご自宅にある小皿を使わせていただくことで、葬儀社の備品で場を作り込みすぎず、故人様が暮らしてきた空間を大切にできます。

自宅安置は、故人様がご自宅に戻る大切な時間です。

そこにある器を使い、そこにある空気を大切にする。

当社は、そのような自然な形で整えることを大切にします。

枕飾りの水差しについて

一方で、見直しの中で、安易に省略してはいけない要素も見えてきました。

それが、枕飾りの水差しです。

枕飾りの水差しには、末期の水や故人様への供え水としての意味があります。

末期の水とは、亡くなられる前後に、口元を水で潤す行いです。

これは単なる形式ではありません。

最後まで、その人を人として大切に扱うこと。

渇きを癒やしたいというご家族の思い。

苦しみが少しでも和らいでほしいという願い。

そうした心が込められた行いです。

地域や宗派によっては、末期の水を行わない場合もあります。

青森県内でも、地域や宗派によって行い方は異なります。

特に浄土真宗では、故人はすぐに仏となるという教えから、末期の水を行わない考え方もあります。

しかし、地域によってしない場合があるから不要と決めるのではなく、なぜ水を供えるのかを理解したうえで、必要な意味を残すことが大切だと考えています。

水差しは、形式として置くものではありません。

故人様に対して、最後まで水を差し上げる心を形にするものです。

そのため当社では、枕飾りの水差しについては、安易に省略しない方向で考えています。

形式を減らし、意味を残す

今回の整理で、当社が大切にしたい方向性は明確になりました。

お清め塩は、ご自宅にある小皿へ準備していただく形へ

専用のお清め所は、できるだけ持ち歩かない形へ

水差しは、故人様への思いを込めて残す形へ

これは、単なる簡略化ではありません。

形式だけが残り、意味が見えなくなったものは見直す。

しかし、ご家族の心や故人様への尊厳につながるものは、丁寧に残す。

それが、令和の葬儀に必要な姿勢だと考えています。

葬儀は、昔の通りに進めるだけのものではありません。

かといって、何でも省略すればよいものでもありません。

大切なのは、ひとつひとつの作法に込められた意味を見つめ直し、ご家族にとって納得できる形に整えることです。

とーたる・さぽーと0528は、これからも故人様の尊厳と、ご家族の心を守る葬儀を大切にしてまいります。

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